カント

カントは東プロイセンの首都ケーニヒスベルクに生まれ、生涯この地を離れることはありませんでした。両親は敬虔なクリスチャンで16歳までフリードリヒ学院で宗教的生活を送る中、古典的教養も身につけました。ケーニヒスベルク大学で哲学や数学、物理学などを学び、この大学の私講師になるまでの七年間、家庭教師として生計を立てていました。規則正しい生活を送り、彼の散歩で町の人は時間がわかるというほどでしたが、ルソーの『エミール』を読んだときだけその時計が狂ったという逸話があります。カントの中には大陸合理論とイギリス経験論、彼の言葉でいえば独断論と懐疑論とふたつの思想が流れ込んでおり、彼の主著『純粋理性批判』においてそれが集約されたと言えます。

 

批判哲学

純粋理性批判』においてカントは、形而上学の範囲や限界を理性能力の批判によって行います。その最大の課題は「アプリオリな綜合判断はいかにして可能か」ということです。分析判断は述語の概念が主語のそれに含まれている判断であり、それに対して綜合判断とは主語概念を述語が付加するような判断です。アプリオリとは先天的という意味で必然性と普遍性を必要としますから、要するにこの問いは、それらを有しかつ拡張的な認識とは何か、ということになるのです。ここでカントはコペルニクス的転回といわれる思考様式の革命を起こします。「あらゆるわれわれの認識が対象に従わなくてはならない」という従来の考え方では、アプリオリな総合判断は不可能です。そうではなくて、「対象がわれわれの認識に従わなければならない」とカントは考えます。対象についての経験は、主観の認識能力によって可能になるのです。

 

純粋理性

カントによると、認識能力は表象を受け取る受容性の能力である感性と、その直観的表象を思惟する自発性の能力である悟性とのふたつに分かれます。「内容のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である」とあるように、総合による判断は両者の共働によってはじめて成立するのです。そしてさらに、感性と悟性にアプリオリな形式が備わっていなければならないとカントは考えます。感性のそれは「空間」と「時間」であり、悟性のそれは「純粋悟性概念」または「カテゴリー」と呼ばれます。悟性を先天的に成り立たせる要素として、カントは伝統的な形式論理学の判断表を手引きに純粋概念を導き出します。それはすなわち、量(単一性、多数性、全体性)、質(実在性、否定性、制限性)、関係(実体と属性、原因と結果、相互作用)、様相(可能性-不可能性、現存性-非存性、必然性-偶然性)の12個です。

そしてカントは「われわれの認識は経験とともに始まるが、それだからといってわれわれのすべての認識が経験から由来するのではない」という結論に達します。まず、感性的に直観される限りにおいての対象を「現象」と彼は呼びますが、現象は空間と時間という純粋直観によってのみ認識できるのであり、そのアプリオリな形式が経験を可能とします。経験を可能とする先天的な要素として、カントはさらにカテゴリーの「超越論的統覚」という概念を持ち出します。彼は「すべての経験は対象についての概念をも含む」と主張します。直観に与えられる多様な表象は、カテゴリーというアプリオリな条件によって総合的に統一されるのです。

 

実践理性

さて、われわれは現象を認識することはできても、アプリオリな総合判断によって「物自体」という対象を捉えることができません。しかし人間の「理性」はそれを超えた存在である「無制約者」を追究しようとします。無制約者とは「霊魂」「世界」「神」という三つの理念であり、これらは悟性のカテゴリーを超えたものであるとカントはみなします。理念は「構成的」にのものを捉えることはできず、ここに形而上学の限界が示されることになるのです。しかしこれを「統制的」に利用することは可能であるとカントは考えます。これが実践理性なのです。

われわれに可能な経験の対象は、先にも述べたとおり「現象」のみです。現象は必然的な因果法則、つまり自然科学によって成り立っており、人間はこれから逃れることはできません。しかしその一方で、人間には自ら自由に意志を規定する能力、すなわち実践理性が備わっています。ここから生じる道徳的な世界には、人間の自由と現象の必然性との調停が見られます。「私は信念に場所をあけるために知を制限せざるを得なかった」というカントの言葉も、そうした実践理性に基づくものなのです。

 

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