May 05, 2019
アリストテレスは17歳のとき、プラトンのアカデメイアに入学します。始めは学生、そして後には教授として、約20年間アカデメイアで研究に励みます。プラトンの死後、彼はアテナイに見切りをつけ、放浪の旅を送りましたが、父がマケドニアの侍医だったこともあり、アレクサンドロスの教育掛としてこの地に赴きます。アレクサンドロス大王の東方遠征の折、アリストテレスもアテナイに戻り、マケドニアの支援のもと、学園リュケイオンを創立します。彼の学派は逍遥(ペリパトス)学派と呼ばれていますが、これは散策しながら学生たちと議論し、思索を重ねたという散歩道(ペリパトス)が由来です。大王の死去にともない、有力な後ろ盾を失ったアリストテレスは、告発されてしまいます。しかし、ソクラテスのように戦うことはせず、「アテナイ人が哲学に対して再び罪を犯すことのないように」と言い残し、エウボイア島のカルキスへと逃れ、その地で没します。彼の偉業は哲学のみにとどまらず、現代諸科学の多くの起源を作り上げ、アリストテレスは「万学の祖」とも呼ばれてます。
アリストテレスの残した論文は、そのほとんどは散逸してしまいましたが、彼の没後250年あまりの時を経て、ロドスのアンドロニウスが草稿類を発見し、編纂しました。編集にあたってアンドロニウスは、第一哲学に関する諸論稿を、自然学書(フィジカ)の後(メタ)にまとめました。これが形而上学(メタフィジカ)となったのです。今日では自然学を超えるもの、あるいは背後にあるもの(メタ)としても認識されています。
アリストテレスが第一哲学と呼んだのは、存在、ものの根本の原理あるいは究極の原因を探る学問ということに由来します。アリストテレスは事物の究極の目的を「不動の第一動者」とし(以下に詳細あり)、これを神と呼びます。このことから、形而上学は神学とも呼ばれています。
アリストテレスは、個物から独立した構造をなしているイデアを批判します。イデアは普遍的ですが、そうしたものは個物と切り離して考えることはできず、むしろ個物の中に存在していると彼は述べます。このような本質を形相と言います。イデアを分有することで個物が存在するというプラトンの説は詩的な比喩にすぎず、それは不可能だと考えたのです。素材としての質料(ヒュレー)に形相(エイドス)が宿ることで、実体が成り立つのです。
そして、実体の変化、運動の原理といったすべての原因は四原因-形相因、質料因、動力因、目的因-に還元されます。建築に例えるならば、木材や土は質料因、家が形相因、大工が動力因、そこで生活する、住むということが目的因となります。さらに家は街の構成要素のひとつとして質料ともなり得ます。ここで動力因、目的因は自然的事物においては形相因に集約され、結局説明原理は、形相と質料によって表わされるのです。
そして、ある形相になりうる可能性が、質料に内在しいる場合、これを可能態と呼びます。たとえば種子は木という形相になる力を秘めています。これが木となったとき、現実態という状態になるのです。このようにして世界は、可能態から現実態へと向かって動いてゆきます。可能態的な要素を排した完全なる形相を第一形相といい、アリストテレスはこれを神とします。このような究極の目的因、形相をもった神は、他者を動かす不動の存在として、「不動の第一動者」と呼ばれます。
アリストテレスの著作は、『命題論』、『宇宙論』、『政治学』など、極めて広範囲にわたっています。哲学書としては『形而上学』や『ニコマコス倫理学』などがとりわけ重要な位置を占めるのではないでしょうか。