May 05, 2019
デルフォイにてに「ソクラテス以上の知者はいない」との神託を受けたソクラテスは、理解に苦しみます。その真偽を確かめるため彼はソフィストたちと議論を交わし、そこで一つの真理を導き出します。自分はソフィストたちとは異なり、己が無知であることを自覚している。その点において彼らより賢明であるといえるかもしれない、と。それが「無知の知」なのであり、彼の哲学の原点となるものです。彼は後に、異教の神ダイモニオンを受け入れたとして死罪を宣告されますが、それをあえて拒まず、魂の不死を信じて毒杯をあおりました。ちなみにソクラテスは一切の著作を残しておらず、その思想はプラトンなどの書物によって、今に伝えられています。
ソクラテスはその哲学において、対話(ディアロゴス)という方法を用います。これはロゴス(理)がふたつに割れることを意味し、それらの対立によって真理への到達が可能であるとします。ある問いに対して相手の見出した答えに疑問を投げかけ、それを繰り返すことで、相手は答えに窮します。そのようにして己の無知を自覚させるのです。これをソクラテスのアイロニーと呼び、青年の知識(エピステーメ)を分娩させる助産術とも呼ばれています。
さて、善そのもの、美そのもの、正義そのものといったものは不変なものであり、それこそがエピステーメであるとソクラテスは考えます。したがって、たとえば美しい物はその時点でのみ美しいのかもしれず、そうした認識は知識ではなく臆見(ドクサ)にすぎません。無知はこのような誤謬に由来するものだと発見したとき、人は美そのものへの知へと傾きます。それが知を愛する、つまり哲学(フィロソフィー=愛知)するということなのです。
アレテーとは人の卓越性、すなわち徳のことです。「徳は知なり」とあるように、ソクラテスはこれを知るということと同一視しました。「汝自身を知れ」とは有名なことばですが、それは無知の知を示すと同時に、「魂への気遣い」をも表します。ソクラテスにとって知を愛する、哲学するというこうことは、そのまま魂を善くするということになるのです。なぜなら、善そのものの知識を得た者はその時点で有徳なのであり、逆に不徳とは無知それ自体に由来するものだからです。「よく生きること」は対話によって無知を自覚することに始まり、それはすなわち真理となるのです。