May 05, 2019
ヒュームは20代のころ、大著『人性論』を8年がかりで書き上げましたが、これは評価されませんでした。40歳すぎにはエディンバラ図書館長となり英国史を書き、これはその後100年にわたってイギリスの教科書として使われることになりますが、彼自身は一生涯、大学教授になることはできませんでした。50代でイギリス大使館の秘書官としてパリに滞在し、フランスの哲学者と多くの交友関係をもちました。なかでもルソーとのトラブルは有名です。晩年は故郷エディンバラで余生をすごしました。
ヒュームは人間の知覚には「印象」と「観念」があるとします。これは生気の程度の違いで、感情や情念が直接的に与えられた場合の知覚が印象であり、そうした印象がのちに記憶や想像によって再現されたものが観念となります。特に想像は、観念どうしを結びつける「連想」として、「類似」「接近」「因果」の三つの原理に分けられます。
さらにそれとは別に、観念を比較する原理として七つの「哲学的関係」があります。類似、量、質、反対、同一性、時空、因果です。それらは、二つの要素に分けられます。幾何学、代数など、比較される観念にのみ依存し、確実性をもちうるのが類似、量、質、反対の四つです。それに対してあとの三つは、経験に依存し、蓋然性をもちます。なかでも因果性についてのヒュームの考察は重要です。
ヒュームによると、因果の観念には「接近」と「継起」とがあります。原因と結果は時間的・空間的に接近したり、継起によって観念が順序づけられたりすることで関係をもつのですが、これらに加えて必要となるのは「必然的結合」です。ヒュームはそれを、ふたつの事物が接近・継起によって繰り返し経験されることから生じる「習慣」にすぎぬものとするのです。われわれがそこに客観性を感じるのは「信念」のためであって、必然的結合は印象として与えられるわけではないのです。ここに自然科学の蓋然性が見出されます。
われわれの物体に関する知覚は、連続的なものではありません。物体の客観性や同一性というような感覚は、やはり信念に基づく習慣によるものなのです。物体についての知覚は、あくまで印象なのであり、その背後に実体があることを意味するわけではありません。同時にヒュームは精神的実体についても否定します。精神とは「考えられぬ速さで継起し、絶え間なき流れと運動の中にある知覚の束ないし集合」にすぎないのです。ヒュームは破壊的にまで徹底した懐疑論者であると言えます。
『人性論』『人間悟性論』など