哲学入門

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ヘレニズム・ローマ期May 05, 2019

ヘレニズム時代の開花に伴い、哲学の舞台はアテナイからシリアやマケドニアといった周辺地域へと移ってゆきます。ヘレニズムからローマ帝政時代にかけては、エピクロス派、懐疑派、ストア派、新プラトン派などの学派が主流となります。彼らの共通の認識は、心の平安(アタラクシアー)です。これが倫理的な実践哲学を生み出しますが、その思想はしだいに宗教的色彩を強めていきます。

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ギリシア哲学May 05, 2019

ギリシア哲学はソクラテス・プラトン・アリストテレスなどが活躍したアテナイのものを中心として、その前後とに区分することができます。哲学の対象は、ソクラテス以前には自然が中心でしたが、その後アテナイにおいて人間へと変化を遂げます。アリストテレス以降はコスモポリスの影響もあり、哲学は個人の平安を追求するものへと形を変えてゆきました。ギリシア哲学全体に通じる原理は「善」であり、ジルソンはこの考えを「善の優位性の思想」と呼んでいます。つまりこの時代、万有の根源は「善」として捉えられていたというわけです。

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アリストテレスMay 05, 2019

アリストテレスは17歳のとき、プラトンのアカデメイアに入学します。始めは学生、そして後には教授として、約20年間アカデメイアで研究に励みます。プラトンの死後、彼はアテナイに見切りをつけ、放浪の旅を送りましたが、父がマケドニアの侍医だったこともあり、アレクサンドロスの教育掛としてこの地に赴きます。アレクサンドロス大王の東方遠征の折、アリストテレスもアテナイに戻り、マケドニアの支援のもと、学園リュケイオンを創立します。彼の学派は逍遥(ペリパトス)学派と呼ばれていますが、これは散策しながら学生たちと議論し、思索を重ねたという散歩道(ペリパトス)が由来です。大王の死去にともない、有力な後ろ盾を失ったアリストテレスは、告発されてしまいます。しかし、ソクラテスのように戦うことはせず、「アテナイ人が哲学に対して再び罪を犯すことのないように」と言い残し、エウボイア島のカルキスへと逃れ、その地で没します。彼の偉業は哲学のみにとどまらず、現代諸科学の多くの起源を作り上げ、アリストテレスは「万学の祖」とも呼ばれてます。

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ソクラテス以前May 05, 2019

ソクラテス以前の哲学は主にイオリアや南イタリアなどのギリシア周辺地域で発展しました。この時代の哲学的対象は自然であり、これを自然哲学と呼びます。

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プラトンMay 05, 2019

政治家を志していたともいわれるプラトンは、哲学を彼に知らしめたソクラテスの刑死と同時に、アテナイの政治に大きく失望します。彼はメガラに逃れたのち、キュレネやエジプトを旅し、初期の対話編を書き上げました。その後の旅行で、イタリアではピュタゴラス派の学者に出会い、またシケリアでシュクサイの僭主ディオニュシオスの義弟ディオンなどとも交わりました。アテナイに戻ったプラトンは、アカデメイアと呼ばれる学園を設立します。アカデメイアの理性とも呼ばれたアリストテレスも、ここの学生でした。この学園はプラトンの没後、900年近くも存続することになります。

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ソクラテスMay 05, 2019

デルフォイにてに「ソクラテス以上の知者はいない」との神託を受けたソクラテスは、理解に苦しみます。その真偽を確かめるため彼はソフィストたちと議論を交わし、そこで一つの真理を導き出します。自分はソフィストたちとは異なり、己が無知であることを自覚している。その点において彼らより賢明であるといえるかもしれない、と。それが「無知の知」なのであり、彼の哲学の原点となるものです。彼は後に、異教の神ダイモニオンを受け入れたとして死罪を宣告されますが、それをあえて拒まず、魂の不死を信じて毒杯をあおりました。ちなみにソクラテスは一切の著作を残しておらず、その思想はプラトンなどの書物によって、今に伝えられています。

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近代哲学May 05, 2019

近代哲学の骨格を形成するのは、人間理性です。ルネサンスによって自己を主体とした思想が生まれた結果、その理性は懐疑的・批判的なものへと発展します。近世の哲学者たちの中には自然科学の分野でも偉大な功績を残した人も多く、そこから主観・客観を中心とした認識論が巻き起こります。こうした議論は大陸合理論、イギリス経験論、そしてドイツ観念論といった様々な立場を生みだしました。

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トマス・アクィナスMay 05, 2019

アウグスティヌスのあと、「スコラ学の父」と呼ばれたトマス・アクィナスが誕生するまでの数百年間、独創的な哲学は誕生しませんでした。ドミニコ会員でもあるトマス・アクィナスは、パリ大学をはじめ、生まれ故郷であるナポリなどでも活躍した人物です。12世紀末、十字軍の影響によって流入してきたアリストテレスの哲学をめぐって大きな論争が巻き起こる中、トマスはアリストテレスの学問に厳密な注釈を与えることによって、キリスト教神学の価値を証明しようとしたのです。

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中世哲学May 05, 2019

中世哲学とは本質的にキリスト教哲学です。この時代は大きく二つに分けられます。初期においては、新プラトン主義とキリスト教理との結合が大きな課題となり、西洋の教師と呼ばれたアウグスティヌスがこれに関わります。またこの期間を教父哲学の時代と言います。そして、彼によって確立された教義が、教会主導のもと付属の各学院(スコラ)によって体系化してゆく作業が行われます。これがスコラ哲学です。アウグスティヌスの没年は430年ですが、その後の数百年間、創造的な哲学は生まれませんでした。しかし、12世紀後半十字軍の影響でアリストテレスの著作がラテン語に翻訳されるなど、次々とギリシア・アラビア哲学が西欧社会に流れ込みます。これを統合した人物がトマス・アクィナスです。

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ヴィトゲンシュタインMay 05, 2019

ヴィトゲンシュタインはオーストリアに生まれ、科学者を志します。しかしケンブリッジでラッセルに学び、哲学へとその研究の道を転じます。彼は初期において『論理哲学論考』を発表し、論理実証主義に大きな影響を与えました。その後オーストリアの小学校教員として数年を過ごしますが、直観主義の数学者ブロウエルの講演を機に哲学への営みを再開します。ヴィトゲンシュタインの死後出版された『哲学研究』では、前期の自らの哲学を批判し、言語現象の分野に新たな視点を導入しました。

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アウグスティヌスMay 05, 2019

アウグスティヌスの生涯で注目すべき点は、18歳のときマニ教に入信したことです。マニ教は世界を光と闇などに分ける善悪二元論的な教義をもち、基本的にキリスト教とは相容れない存在なのです。アウグスティヌスはその頃、キケロの書物を読み、知恵への愛に目覚めますが、彼の哲学の方向性を決定的なものとしたのは、新プラトン主義との出会いです。『告白』に描かれるように、その後劇的な回心を経て、アウグスティヌスはキリスト教徒になります。彼の哲学はこの回心に秘められていると言ってよいでしょう。

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ニーチェMay 05, 2019

ニーチェはショーペンハウアーの意志哲学の影響を多大に受け、またワーグナーの芸術にも傾倒しました。その思想はおよそ三期に分けられ、第一期はショーペンハウアー的・ワーグナー的時期です。『悲劇の誕生』、『反時代的考察』がそれにあたります。そして過渡期にあたる第二期においては、『人間的な、あまりに人間的な』や『曙光』などの作品を残しました。その円熟期は第三期であり、ツァラトゥストラ期と呼ばれます。『ツァラトゥストラ』、『善悪の彼岸』などがこのころの著作です。ニーチェは1889年にトリノで倒れ発狂したのち、その11年後に亡くなりますが、彼の遺稿を集めて死後に出版された『力への意志』も、彼の哲学を知る上で重要な位置を占めています。

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ショーペンハウアーMay 05, 2019

ショーペンハウアーは裕福な商家に生まれ、商人の見習いなどもしますが、父の死後、ゲッティンゲン、ベルリン、イェナの各大学で学びました。プラトンやカントの哲学を勉強し、またベルリン大学ではフィヒテの講義なども聴きます。1819年、主著『意志と表象としての世界』の正編を完成させ、翌年にはベルリン大学の私講師となりますが、正教授のヘーゲルの存在もあり、受講生は少なかったようです。後年、ショーペンハウアーはフランクフルトの学者として過ごしました。『意志と表象としての世界』は当初ほとんど反響はありませんでしたが、この頃出版された『余録と補遺』によって彼はにわかに脚光を浴び、「フランクフルトの聖者」とたたえられるようになりました。

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ヒュームMay 05, 2019

ヒュームは20代のころ、大著『人性論』を8年がかりで書き上げましたが、これは評価されませんでした。40歳すぎにはエディンバラ図書館長となり英国史を書き、これはその後100年にわたってイギリスの教科書として使われることになりますが、彼自身は一生涯、大学教授になることはできませんでした。50代でイギリス大使館の秘書官としてパリに滞在し、フランスの哲学者と多くの交友関係をもちました。なかでもルソーとのトラブルは有名です。晩年は故郷エディンバラで余生をすごしました。

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ロックMay 05, 2019

ロックは自然科学に興味をもち、大学では医学を勉強しました。そのため、物理学者のニュートンやボイルなどとも親交がありました。シャフツベリ伯の侍医となりますが、伯の失脚と同時にオランダへと亡命。名誉革命後に帰国し、ロンドン郊外で老後の生活を送りました。彼は一生涯独身でした。ロックは哲学のみならず、政治、宗教、医学などの分野でも活躍し、のちのフランス革命やアメリカ独立に大きな影響を与えたことは言うまでもありません。

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イギリス経験論May 05, 2019

経験論は認識の根源を経験に求める立場です。ロックに始まった経験論は17、18世紀のイギリスにおいて、バークリやヒュームといった哲学者によって発展しました。彼らは人間の理性を超越したものの存在を拒絶し、数学的知識の確実性を軸に議論を展開してゆきますが、しかしその一方で、彼らの立場はわれわれに経験をもたらすはずの自己や世界さえも否定する方向へと向かってゆきます。イギリスの思想家たちはこのような認識論を推し進めてゆくと同時に、啓蒙主義時代の一翼を担い、政治の分野でも大きな功績を残しました。

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ハイデガーMay 05, 2019

ハイデガーは1889年、ドイツのメスケルヒに生まれます。ブレンダーノの『アリストテレスによる存在者の多様な意義について』という博士論文を読んで「存在への問い」に目覚めたとされています。1915年からフライブルク大学で私講師を始めた彼は、その頃フッサールと交わり、現象学の手法を学びました。そして10年余りの沈黙ののち、ハイデガーは『存在と時間』を発表します。そのすぐ後にフッサールの退官を受けて大学教授に就任し、終生この地に留まることになります。「現存在の現象学」として展開された『存在と時間』は、サルトルやメルロ・ポンティなどにも多大な影響を与えました。

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フッサールMay 05, 2019

フッサールはオーストリアのユダヤ系の旧家に生まれました。彼は最初、数学上の論文で博士号を取得しましたが、ブレンダーノの講義を聴き、専攻を哲学へと変えました。その後ハレ大学の私講師になったフッサールは、『論理学研究』を公刊します。その第二巻において、今日の意味での「現象学」が登場するわけですが、この論文が認められてフッサールはゲッティンゲン大学に助教授として赴き、さらにその後はフライブルク大学教授を勤めました。退官後も彼はフライブルクに留まり、ナチス統治下での不遇といった問題を抱えてはいたものの、極めて静かな学究としての生涯を送りました。しかしその思索の反響は極めて大きく、ゲッティンゲンおよびミュンヘンにおける現象学派、シェーラーの倫理学、ハイデガーの実存主義、サルトル、メルロ・ポンティらのフランス哲学など、その影響力は測り知れません。これは哲学のみならず、社会学や精神医学などにも及んだと言われています。

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キルケゴールMay 05, 2019

キルケゴールは1813年、コペンハーゲンに生まれ、コペンハーゲン大学で神学と哲学を学びました。彼は父親が幼いころ貧困から神を呪っていたこと、結婚前に妻を妊娠させたこと、という神に対する罪を背負っていた事実を知り、精神上の「大地震」を経験します。またその後には、レギーネ・オルセンとの婚約を破棄するという事件を起こしました。彼の作品はこれらの体験が大きく関わっていると言えます。事件直後ベルリンへと赴いて後期シェリングの講義を聴き、帰国後は仮名の著作を次々と発表しました。キルケゴールは『死に至る病』を書き上げたのち、デンマーク国教会への批判を展開する中、42歳でその生涯を閉じました。

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サルトルMay 05, 2019

サルトルは1905年、パリに生まれます。33年から給費留学生としてベルリンに滞在してフッサールの『イデーンⅠ』を熟読し、またハイデガーの哲学をも取り込んで、現象学の研究を始めます。人間の心的意識の本質構造を記述する「現象学的心理学」の立場から、『自我の超越』、『創造的なもの』などを発表し、その後『存在と無』を著します。彼はパリで行った講演を『実存主義はヒューマニズムである』にまとめ上げ、またメルロ=ポンティらと共に『現代』を創刊するなど、第二次大戦後の実存主義ブームを巻き起こしました。

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ヘーゲルMay 05, 2019

ヘーゲルは1770年、シュトットガルトに生まれます。牧師を目指してテュービンゲン大学で神学を学び、この地でシュリング、ヘルダーリンと出会います。哲学に関心をもったヘーゲルは卒業後、カントと同様に家庭教師となります。1801年にイエナ大学の私講師となり、このころシェリングと共同で『哲学批判誌』を刊行します。その後はニュルンベルクのギムナジウムの校長、ハイデルベルク大学、ベルリン大学の教授といった職をこなしてゆきます。ベルリン時代においてはヘーゲル学派なども形成され、ヨーロッパ各地に大きな影響を与えました。ヘーゲルは近代の他の哲学者などとは異なり、若いころに自然科学の研究には取り組んでいません。このころの彼の関心は宗教や道徳など、人間の精神的世界に向かっています。こうした取り組みがのちのヘーゲル哲学の土台となるのです。

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ドイツ観念論May 05, 2019

ドイツ観念論は18世紀末から19世紀初頭にかけて形成されました。カントが大陸合理論とイギリス経験論との統合を果たしたのち、ヘーゲルなどの哲学者によって発展してゆきます。特に主観に関するカントの記述は、ドイツにおいて、主客の同一性というかたちで展開されます。カントの形而上学の諸部門を統合し、再構成しようという試みがこのドイツ観念論者たちによってなされたのです。

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カントMay 05, 2019

カントは東プロイセンの首都ケーニヒスベルクに生まれ、生涯この地を離れることはありませんでした。両親は敬虔なクリスチャンで16歳までフリードリヒ学院で宗教的生活を送る中、古典的教養も身につけました。ケーニヒスベルク大学で哲学や数学、物理学などを学び、この大学の私講師になるまでの七年間、家庭教師として生計を立てていました。規則正しい生活を送り、彼の散歩で町の人は時間がわかるというほどでしたが、ルソーの『エミール』を読んだときだけその時計が狂ったという逸話があります。カントの中には大陸合理論とイギリス経験論、彼の言葉でいえば独断論と懐疑論とふたつの思想が流れ込んでおり、彼の主著『純粋理性批判』においてそれが集約されたと言えます。

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デカルトMay 05, 2019

デカルトは、近代哲学の創始者ともいえる人物です。10歳のときからイエズス会のラ・フレシェでスコラ的な教育を受けましたが、これに反発。「書物の学問」を捨て、「世界という大きな書物」に挑むようになります。卒業後はパリに滞在して軍隊に入りました。そして23歳のとき冬営でひとり思索を重ねていたとき、突然頭に閃光がきらめき、「驚くべき学の基礎」を発見したと言われています。軍隊脱退後、自然科学の研究を続けるとともに、ヨーロッパ各地を旅行します。1629年からオランダに20年間滞在しましたが、スウェーデン女王クリスティーナに招かれストックホルムにわたり、その翌年肺炎のため亡くなりました。デカルトの座右の銘は「よく隠れたるものは、よく生きたるもの」という言葉であったそうです。

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大陸合理論May 05, 2019

17世紀の西洋哲学の主流の一つが、デカルト、ライプニッツなどに見られる合理論で、イギリス経験論とほぼ同じ時期に始まりました。彼らの主張はその名の通り、明示的な原理から真理を導き出そうというものですが、特に重要な指摘は「二元論」にあります。精神と物体の分離によって、アリストテレスから続く質料・形相的な自然学からの脱却が果たされ、数学を中心とした自然科学が現れるのです。その土台となったのがルネサンス期の思想であることは言うまでもありません。

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ライプニッツMay 05, 2019

ライプニッツは哲学者であり、歴史家、数学者、物理学者であり、そして外交官でもありました。彼はあらゆる学問に精通し、数学においては独自に微積分法を編み出してニュートンとその優先権を争ったりもしました。ライプニッツはハノーヴァー侯に仕え、政治外交方面で活躍しました。実に活動的な人物で、教授の資格を持っていながら大学での研究活動を拒絶し、そのためかまとまった著作はあまり多くありません。しかしその巨大な業績から、彼は近代ドイツ哲学の父であり、また近世のアリストテレスとまで言われています。

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ルネサンスMay 05, 2019

ルネサンスとはフランス語で「再生」を意味します。イタリアでの人文主義、ヒューマニズムの運動はすでに14世紀ごろから始まっていました。この動きに大きな影響を与えたのは東ローマ帝国の滅亡です。これにともない、ビザンティンの学者がイタリアに流入し、ギリシア哲学の原典などが西欧にもたらされたのです。こうした中、13世紀以降主流であったアリストテレス哲学に対抗し、フィレンツェにおいてプラトン哲学が台頭してきます。またそれとともに、パドヴァ大学などでは、反スコラ的な姿勢によって、アリストテレス哲学の新たな解釈が試みられました。さらに加えて、ストア派の思想なども復活を遂げます。ここに古代ギリシア哲学の「再生」が果たされたのです。

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